軍艦島の閉山は、日本の産業革命を支えた海底炭鉱の象徴的な出来事でした。1890年の三菱による買収から1974年の閉山まで、端島(軍艦島)は激動の84年間を歩むことになります。
多くの資料では「エネルギー革命による石炭から石油への転換」が閉山の理由として語られがちですが、実はそれは副次的な要因に過ぎませんでした。真の理由は、1964年8月に発生した致命的な炭鉱事故と、その後の採掘可能な石炭の枯渇にあったのです。
この記事では、2024年に放送されたドラマ「海に眠るダイヤモンド」の舞台となった軍艦島が、なぜ閉山に追い込まれたのか、その真相に迫ります。
1964年の自然発火事故による深部区域水没の詳細
新たな採掘地を求めた三ツ瀬区域開発の軌跡
労使が合意して閉山を決めるまでの経緯
約2000人の島民が離島を余儀なくされた最後の3か月
世界最高の人口密度を誇った島が無人と化すまでの過程を、当時の資料や証言を基に詳しく解説していきます。かつて5000人以上が暮らした「海の要塞」が静寂に包まれていく様子を紹介します。
軍艦島閉山の歴史的背景
長崎港から南西に19kmに位置する軍艦島(端島)は、日本の産業革命を支えた海底炭鉱の象徴でした。
三菱による買収と炭鉱開発
1890年、三菱が10万円で端島を買収
日本初の海底炭鉱として本格稼働
高品質な製鉄用原料炭の産出
三菱は端島を買収後、積極的な設備投資を行い、海底炭鉱としての開発を進めていきました。特に採掘される石炭は高カロリーの原料炭として高い評価を受け、八幡製鉄所への供給を通じて日本の工業化を支えました。
戦後復興期の繁栄
1941年に年間出炭量41万トンを記録
傾斜生産方式による石炭増産政策
1959年に過去最高の5,259人が居住
戦後、日本政府は経済復興の柱として石炭産業を位置づけ、端島の生産量は飛躍的に伸びていきました。島内には学校や病院、映画館などの都市機能が整備され、東京の9倍という世界一の人口密度を誇る独特のコミュニティが形成されていきました。
近代化された居住環境
1916年に日本初の高層鉄筋アパート建設
日本初の屋上庭園の試み
1957年の海底水道開通
限られた島の面積を最大限活用するため、端島では早くから高層アパートの建設が進められました。30号棟と呼ばれる日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅は、当時の建築技術の粋を集めた画期的な建造物でした。
1964年の致命的な炭鉱事故
エネルギー革命の荒波が押し寄せる中、1964年8月に発生した大規模な炭鉱事故は、端島の命運を大きく左右する転換点となりました。この事故をきっかけに、多くの島民が島を離れることになります。
海底940メートルでの自然発火
8月17日午前2時半に自然発火を発見
10名の作業員が重傷を負う
消火作業中に2度の爆発が発生
当時の作業現場は海面下940メートルという深部に位置していました。地熱が高く自然発火の危険性が指摘されていた場所での事故でした。初期消火を試みるものの、ガス燃焼によって新たな被害者が出る事態となりました。
深部区域の水没決定
直接消火が困難と判断
8月25日に発生源の完全水没を実施
約1年2カ月の出炭停止期間が発生
三菱鉱業は大規模な事故を防ぐため、最終手段として深部区域の水没を決定します。この決断により、それまでのメイン採掘場は完全に失われ、生産体制の見直しを迫られることになりました。
事故後の人口流出
鉱員数が1000人から500人に激減
多くの家族が島外への移住を決意
島内の活気が徐々に失われていく
事故を機に、安全性への不安から多くの鉱員が職を求めて島を離れていきました。かつての活気に満ちた島の雰囲気は一変し、閉鎖的な空気が漂い始めます。まさに、端島の衰退を象徴する出来事となったのです。
閉山への道のり
1964年の事故後、三菱鉱業は新たな採掘地の開発を進めましたが、技術的な限界と安全性の問題に直面します。石炭産業を取り巻く環境の変化と相まって、端島は徐々に閉山への道を歩んでいきました。
三ツ瀬区域開発の挑戦
1965年に三ツ瀬新坑から出炭開始
機械化による生産効率の向上
炭層の限界が次第に明らかに
三ツ瀬区域の開発は、一時的に端島の生産を回復させました。しかし、左右の両翼を断層で切断された炭層構造により、採掘可能期間は10年足らずと予測されていました。
端島沖探炭坑道の失敗
1968年から西方向への探査開始
断層破砕帯での大量出水事故
予想以上の深度で開発断念
新たな可採区域を求めて始まった端島沖の探査は、厳しい現実に直面します。海面下600メートルからの掘進中に発生した出水事故により、これ以上の開発は困難と判断されました。
閉山決定までの経緯
1970年3月に組合員へ開発断念を報告
独自調査でも採算性の限界を確認
1973年9月に労使間で閉山に合意
採掘技術の限界と安全性の確保が困難となる中、三菱鉱業と労働組合は慎重な協議を重ねました。その結果、「安全に採炭し得る石炭が枯渇した」という結論に至り、閉山という決断を下すことになったのです。
島民たちの離島と閉山
1974年1月15日、端島炭鉱は84年の歴史に幕を下ろしました。約2000人の島民たちは、思い出が詰まった島との別れを余儀なくされます。閉山から無人島となるまでの3か月間、島は静かなカウントダウンを刻んでいきました。
閉山式の様子
約800人の従業員が参列
事故犠牲者への黙祷を捧げる
「天寿を全うしての閉山」と社長が表明
閉山式では、84年の歴史の中で事故により亡くなった方々への追悼が行われました。三菱鉱業の岩間社長は「我が国有数の石炭を出炭してきた端島炭鉱も、いわば天寿を全うして閉山することになった」と述べ、従業員たちの労をねぎらいました。
最後の卒業式から無人島へ
1974年3月に最後の卒業式を挙行
47人の卒業生が島を巣立つ
珍しい春の雪が島を包む
端島小中学校の最後の卒業式は、島の歴史に深い感動を残す出来事となりました。卒業生たちは「波しぶきの中で育ててくれた軍艦島を思い出し、新しい道を踏みしめていきます」と決意を述べ、永遠の別れを告げました。
最後の定期船
4月17日に住民登録がゼロに
家財道具を積んだ引っ越しが続く
最後の船は島を一周して別れを告げる
1974年4月20日、最後の定期船が出港する際、船は島の周りを一周しました。しかし、見送る人は誰もおらず、ただ船の汽笛の音だけが島に響き渡りました。かつて5000人以上が暮らした島は、こうして静かに無人島となったのです。
軍艦島閉山は石炭枯渇が決め手、エネルギー革命は副次的要因【総括】
1890年の三菱による買収から84年の歴史
最盛期には5259人が居住する世界一の人口密度
1964年の自然発火事故が転換点に
事故後の水没により深部区域を放棄
三ツ瀬区域開発で一時的に生産回復
端島沖探査の失敗で新区域開発を断念
安全な採掘が可能な石炭の枯渇が主因
労使双方の合意による閉山決定
1974年1月15日に閉山式を挙行
同年4月20日に完全無人島化
2015年に世界文化遺産に登録
現在は観光地として年間24万人が訪問
端島(軍艦島)の閉山から50年が経過しました。現在は世界文化遺産として、日本の産業革命の証人となっています。かつてこの島で暮らし、日本の近代化を支えた方々の誇りと記憶を、これからも大切に伝えていきたいものです。