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御船千鶴子は貞子のモデル?千里眼事件のトリックと真相

御船千鶴子は貞子のモデル 事件簿
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「御船千鶴子の千里眼能力は本当だったの?」
「なぜ『リング』の貞子のモデルになったの?」
「御船千鶴子の生涯や死因について詳しく知りたい」

御船千鶴子(みふねちづこ)さんは、実在の千里眼能力者として注目を集め、その生涯と能力をめぐる「リング」の設定に大きな影響を与えたとされています。

本記事では、御船千鶴子さんの千里眼能力の真相や「リング」の貞子との関連性、そして彼女の謎めいた人生と最期について、詳しく解説します。

御船千鶴子と貞子の関係:映画「リング」のモデルとなった千里眼事件

御船千鶴子さんは、映画「リング」の貞子の母親(山村志津子)のモデルとされる実在のです。

リングの原作者によると、貞子にはモデルになった直接の人物はいないとのこと。

御船千鶴子さんと同時期に、福来博士の元で念写などの超能力実験を行っていた高橋貞子さんという方がいました。

この高橋貞子さんが「リングの貞子のモデルでは!?」と、巷でまことしやかにささやかれていたようですが、その都市伝説は原作者が否定しています(名前は単なる偶然の一致でした)

御船千鶴子の千里眼能力とは?透視実験の真相

御船千鶴子

via:透視と念写 復刻版
御船千鶴子さんの千里眼能力は、以下のような特徴がありました。

– 封をされた箱や封筒の中身を透視する能力
– 念じただけで文字や図形を写真乾板に写し出す能力

これらの能力は、当時の学者たちによって実験的に検証されました。透視実験の内容は以下の通りです。

– 箱や封筒に入れられた対象物を千鶴子さんが手に持つ
– 精神統一をして中身を当てる
– 学者や新聞記者が立ち会い、結果を確認する

実験では、高い的中率で中身を当てたとされています。たとえば、1910年9月の公開実験では、「道徳天」という3文字を正確に透視した…ということになっています。

貞子の母親のモデルになった事件:千里眼事件の概要

千里眼事件とは、御船千鶴子さんの能力をめぐって起こった一連の出来事を指します。

  • 1909年
    御船千鶴子さんの能力が新聞で報じられる
  • 1910年
    帝国大学の福来友吉助教授が実験を開始
  • 1910年9月
    東京で公開実験が行われ、大きな注目を集める
  • 1911年1月
    千鶴子さんが突然の自殺を遂げる(24歳)

この事件は、以下の点で映画「リング」のストーリーに影響を与えています。

– 超能力者の存在とその能力の検証
– マスコミの過剰な注目
– 悲劇的な結末

千里眼事件は、当時の日本社会に大きな影響を与え、超能力ブームを引き起こしました。

御船千鶴子の夫との関係と離婚の真相

御船千鶴子さんの結婚生活について、以下の事実が分かっています。

– 1908年:陸軍中尉・河地可謙さんと結婚
– 結婚から3週間足らずで夫は満州に出征
– 1910年4月6日:協議離婚

離婚の理由については諸説あります。

– 福来友吉さんによると、互いに相手を嫌っていたわけではなく、離婚を悲しんだとされる
– 千鶴子さんの能力が注目を集めるようになり、夫婦関係に影響を与えた可能性
– 短期間の同居と長期の別居が原因とする見方

離婚後、千鶴子さんは実家に戻り、その能力を使って家業の医院を手伝ったと言われています。

千里眼実験のトリックとは?

千鶴子さんの能力をめぐっては、様々な疑惑が提起されました。

– 実験中に対象物のすり替えが行われた可能性
– 千鶴子さんが別室で一人で透視を行う点が不審視された
– 実験物の封じ方や管理に疑問が投げかけられた

これらの疑惑に対する学者たちの見解は分かれました

– 福来友吉さん:千鶴子さんの能力を信じ、科学的な解明を試みる
– 田中館愛橘さん:「私はまだ千鶴子を信じない」と懐疑的な態度を示す
– 山川健次郎さん:当初は関心を示すも、後に疑問を持ち始める
– 福来友吉:東京帝国大学助教授、高野山大学教授。文学博士(1906年)学位論文「催眠術の心理学的研究」。念写の発見者とされる。
– 田中館愛橘:帝国大学教授。物理学者。
– 山川健次郎:東京帝国大学元総長、物理学者。

トリック4つの可能性

この動画では 千鶴子さんの千里眼能力が実際にはトリックであったことを詳細に解説しています。

明治43年(1910年)9月15日、東京で公開の透視実験が行われました。この実験では、20本の半田で密閉された鉛管が用意され、その中に立ち会い人の山川健次郎博士が文字を書いた紙が封入されました。

そこで御船千鶴子さんは「盗丸射」という文字を透視したと言い、実際に鉛管を開けてみると、その通りの文字が書かれていました。

しかし、この実験結果に対して山川博士が異議を唱えました。彼は「盗丸射」という言葉を書いていないと主張したのです。

後の調査で、この紙は福来博士が練習用に書いたものであることが判明しました。これにより、御船千鶴子さんの能力に対する疑惑が一気に高まることとなりました。

動画では、御船千鶴子さんが行っていたとされる透視のトリックについて、詳細な解説がなされています。特に、公開実験で使用された方法について、以下のような可能性が指摘されています。

– 20個の鉛管全てについて、あらかじめ中に書いてある文字を知っておき、外からどの鉛管かわかるように印をつけておく方法(ガンカードという手法に似ている)
– あらかじめ中身の分かっている1個の鉛管を忍ばせておき、20個の中からそれを普通に選んだように見せかける方法(マジック用語で「ホース」と呼ばれる手法)
– 渡された鉛管とあらかじめ持っていた鉛管をすり替える方法
– 鉛管が渡されてから何らかの方法で開けて中を見て、再び閉じる方法

これらの方法は、当時の実験の条件下では十分に可能だったとされています。また、御船千鶴子さんの実験には常に、手元が見えない状況や時間制限がないなど、トリックを行いやすい条件が整っていたことも指摘されています。

さらに動画では、福来友吉博士と御船千鶴子さんの関係についても言及されています。

福来博士は、自身の学説を他の学者たちに認めさせたいという思いから、御船千鶴子さんの能力を利用した可能性が指摘されています。

また、実験の内容や方法が稚拙であったことから、福来博士自身も御船千鶴子のトリックに加担していた可能性が高いと分析されています。

疑惑の高まりとともに、千鶴子さんへのバッシングも強まっていきました。これが彼女の悲劇的な最期につながったという見方もあります。

御船千鶴子の死因と墓:謎めいた最期と後世への影響

御船千鶴子さんの死については、以下のような事実が知られています。

– 死亡日時:1911年1月19日
– 死因:服毒自殺
– 享年:24歳

死因をめぐっては、様々な憶測がなされています。

– 学者や新聞による批判やバッシングを苦にした可能性
– 家庭内の不和が原因とする説
– 能力の真偽をめぐる精神的プレッシャーが限界に達した可能性

御船千鶴子さんの墓は、現在も熊本県宇城市不知火町松合(六地蔵公園の近く)に存在しています。地元では、千鶴子さんの生涯や能力について語り継がれているそうです。

千鶴子さんの死は、当時の千里眼ブームに終止符を打つ出来事となりました。しかし、彼女の存在は後世に大きな影響を与え、「リング」をはじめとする様々な創作作品のモチーフとなっています。

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