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福田和子に共犯者?時効成立まで11時間のギリギリ執念捜査!15年前の日記が嘘を暴いた

事件簿
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で、共犯者はいなかったのだろうか」
「夫は、どのような罪に問われたのだろう」
「なぜ福田和子は共犯者がいると主張したのだろう?」

福田和子による松山ホステス殺害事件において、殺人の共犯者は存在しませんでした。逮捕から時効成立まで残り21日の取り調べ中にに、すでに死亡していた男性を共犯者として名指ししましたが、その男性のアリバイが判明し、時効を逃れるための虚偽の供述だったことが明らかになっています。ただし、死体遺棄については夫が共犯者として懲役1年6ヶ月(執行猶予3年)の有罪判決を受けました。

この記事では、松山ホステス殺害事件における福田和子の共犯者説について、その真相と経緯を詳しく解説していきます。

福田和子の共犯者

・共犯者説が浮上した背景と福田和子の供述内容
・警察による15年前のアリバイ捜査の実態
・時効成立11時間前の起訴に至るまでの攻防
・和菓子屋での生活や息子との関係
・整形手術と偽名を使った逃亡手口の詳細

福田和子の共犯者

共犯者説が崩れるまでの経緯や、福田和子が約15年もの間警察の追跡から逃れ続けた手口、そして最期を迎えるまでの全容について、これまでに明らかになった事実を基に解説していきます。

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福田和子の犯行と時効寸前の逮捕劇の真相

1982年に松山市で発生した松山ホステス殺害事件。犯人の福田和子は、整形手術と偽名を駆使して約15年もの間、警察の追跡から逃れ続けました。7つの顔を持つ女と呼ばれた彼女の犯行から逮捕までの軌跡を、詳しく見ていきましょう。

松山ホステス殺害事件の概要

1982年8月19日、松山市勝山町の大西太ビル703号室で、ホステスの安岡厚子さん(当時31歳)が殺害されました。犯人の福田和子(当時34歳)は、安岡さんと同じホステスとして働いていた元同僚でした。

事件当日、生活費や借金返済のために金の無心
断られたことで口論となり、首を絞めて殺害
現金約13万円と預金通帳、銀行印を奪取
高級家具など341点(総額約950万円相当)を持ち去る

事件の背景には、福田の複雑な事情がありました。当時、福田には夫と4人の子どもがいましたが、「高井はつ美」という偽名を使って愛人関係にある男性がおり、その関係を続けるために200万円もの借金を抱えていたのです。

安岡さんは、売れっ子ホステスとして知られ、実家への仕送りをしながら兄弟と喫茶店を開く夢のために貯金をしていました。福田は、そんな安岡さんになら融資を頼めると考えて自宅を訪ねたのです。

事件当日の行動からは、福田の計画的な犯行の様子が浮かび上がってきます。

手土産の酒を持参して安岡さん宅を訪問
殺害後、遺体をタオルケットで包みガムテープで固定
非常階段に遺体を移動して隠す
安岡さんの恋人が来訪した際も冷静に対応

特筆すべきは、安岡さんの恋人が合鍵で部屋に入ろうとした際の福田の対応でした。

福田は「最近引っ越してきた者です」と取り繕い、安岡さんからの伝言という形で巧みに追い返すことに成功。この時点ですでに、その後の長期逃亡を可能にした狡猾さが垣間見えていました。

犯行後の15年におよぶ逃亡生活

殺害後、福田は夫に電話をかけ「正当防衛で誤って人を殺してしまった」と嘘をつき、遺体処理への協力を要請。さらに親戚も巻き込んで、安岡さんの家財道具を運び出すという大胆な行動に出ます。

逃亡資金の調達方法も計画的でした。

安岡さんの預金通帳から76万4000円を引き出し
夫名義の口座から約60万円を確保
家財道具の一部を換金
合計で約150万円の逃亡資金を用意

逃亡生活は、予想以上に緻密な計画性を持って行われました。福田は以下のような戦略を駆使して、警察の追跡をかわし続けました。

移動時は必ず長距離列車を利用し、途中下車を繰り返す
家族への連絡は必ず関西圏から行い、居場所を偽装
ホテルは必ず非常階段に近い部屋を指定
宿泊代は必ず前払いで、長期滞在を避ける

金沢での生活は、逃亡生活の中でも特筆すべき期間となりました。金沢市のスナックで「小野寺忍」の名で働き始めた福田は、客の男性2人と関係を持ちます。ひとりは機械メーカーの営業マン。もうひとりが、その後の逃亡生活に大きく関わることになる老舗和菓子店の若主人でした。

和菓子店での生活について、当時を知る従業員は次のように証言しています。

とにかく仕事熱心で、接客も完璧。お客さまの名前や好みを全部覚えていて、売り上げは前年の倍近くまで伸びました。若旦那との仲も良好で、実の奥さんよりずっと店向きだと皆が言っていました。

しかし、この平穏な生活にも終わりが訪れます。若主人との正式な結婚話が持ち上がり、素性を問われるようになったのです。そして決定的だったのは、呼び寄せていた実子の所持品から、愛媛県の運転免許証が発見されたことでした。

整形手術と偽名を使った逃亡手口

福田の逃亡を長期化させた最大の武器が、整形手術でした。逃亡開始からわずか9日後、福田は・新橋の十仁病院で最初の整形手術を受けます。

一重まぶたを二重に
鼻筋を通すためのシリコン挿入
顎のラインを整える
目頭切開による二重幅の調整

興味深いのは、病院側が術前・術後の写真を保管する規則があったにもかかわらず、福田は「写真は絶対にいや」と強く拒否。しかし病院側の説得で、しぶしぶ撮影に応じたというエピソードが残っています。この写真は後に警察の重要な証拠となりました。

偽名の使用にも特徴がありました。

小野寺忍(金沢のスナック時代)
倉本かおる(名古屋のホテル勤務時)
中村麗子(福井のおでん屋時代)
その他、20以上の偽名を使い分け

特筆すべきは、福田が偽名を使う際の巧妙な手口です。たとえば和菓子店の若主人に対しては、「嵯峨野の料亭の一人娘」という設定で身分を偽り、高級な生活環境で育ったという経歴を演出していました。

福田和子が主張した「共犯者」とは?

逮捕後の取り調べで、福田は巧妙な供述戦術を展開します。すでに時効が成立していた死体遺棄罪については認めながらも、殺人については「共犯者がいた」と主張。時効成立まで残り21日という時点での逮捕でしたが、起訴できるかどうかの新たな攻防が始まりました。

取り調べで突如浮上した共犯者説

1997年7月29日、福井で逮捕された福田は松山東署に移送され、取り調べが始まります。当初、福田は「人違いだ」と容疑を否認。しかし指紋の一致を突きつけられると、一転して衝撃的な供述を始めます。

取り調べを担当した中井邦彦刑事一課長(当時)は、福田の様子をこう振り返っています

こちらを見て『あ、あなたテレビで見たことあるわ』と、そのくらいの余裕がありました。福田和子の腹の据わりようは半端じゃなかったですね

福田の供述内容は以下のように変遷していきました。

「安岡さんの愛人が犯人。私は死体遺棄だけ関与した」
その主張が崩れると「実は別の男性が犯人」と供述を変更
共犯者とされたの具体的な特徴や行動を詳細に説明
自身の関与を最小限に抑える巧妙な供述

さらに福田は、取調室で見せられた似顔絵(整形後の予想図)に「私にそっくりです。福田和子」と自ら書き込むなど、一見協力的な態度を見せながら、肝心の殺人容疑については頑なに否認を続けました。

共犯者とされた男性の存在

福田が名指しした「共犯者」は、すでに他界していた男性でした。この人物選びにも、福田の計算が働いていたと考えられています。

共犯者とされた男性の特徴は

福田と面識があり、アリバイ崩しが困難な人物を選択
すでに死亡しているため、本人への事情聴取が不可能
15年前の記憶を検証することの難しさを計算
遺族への配慮から、安易な容疑者認定が困難な状況を作り出す

捜査関係者は、福田のこの供述について「極めて計算された防御戦術だった」と評価しています。実際、生存者であれば即座にアリバイ確認が可能ですが、故人の場合、15年前の行動を裏付けることは極めて困難だからです。

また、福田は取り調べの中で、こんな発言もしています。

あなたたち、ずいぶん私を追い詰めましたね。でも、私が黙っていれば、あと21日で全部終わるんです。そうでしょう?

この発言からも、福田が時効制度を熟知し、計算づくで供述を組み立てていたことがうかがえます。

警察による15年前のアリバイ捜査

時効成立まであと3週間という時間的制約の中で、警察は前代未聞の捜査に着手します。15年前の一日の行動を、確実な証拠をもって証明しなければならなかったのです。

捜査本部は以下の方針で調査を進めました。

男性の親族、友人、同僚など関係者への徹底的な聞き取り
当時の勤務先や取引先への調査
交通機関の記録、ホテルの宿泊履歴の確認
1982年8月19日前後の新聞、各種資料の精査

捜査の決め手となったのは、男性の遺品整理から見つかった一冊の日記でした。そこには1982年8月19日の東京出張の様子が克明に記されていました。

日記には以下のような記載がありました。
– 午前8時:松山駅から東京へ向けて出発
– 午後1時:取引先との打ち合わせ
– 夜:銀座での接待
– 宿泊先のホテル名まで明記

この日記の内容は、以下の証拠によって裏付けられました。

勤務先に残されていた出張記録
取引先企業の当時の担当者の証言
ホテルの古い宿泊台帳
同行した同僚の証言

時効と闘った捜査の舞台裏

福田和子の逮捕に向けて、警察は従来の捜査手法の限界に直面していました。15年という長期の逃亡事件に対して、新たな捜査手法の開発が求められたのです。

前例のない懸賞金100万円をかけた捜査

1996年8月、時効成立まで1年を切った時点で、愛媛県警は画期的な決断を下します。犯人逮捕につながる情報提供者への懸賞金100万円の設定です。

この決定の背景には以下のような状況がありました。

従来の捜査手法での行き詰まり
整形による容姿の変化で目撃情報が役立たず
偽名使用により身元追跡が困難
時効成立が目前に迫る切迫した状況

さらに、福田に整形手術を施した十仁病院も独自に400万円の懸賞金を申し出ます。病院側は「結果的に逃走を助けてしまった責任を感じる」とコメント。懸賞金総額は500万円という異例の規模となりました。

また、警察は以下のような新しい捜査手法も導入しました。

福田の肉声を録音したテープの公開
手配写真入りテレホンカードの全国配布
コンピューターグラフィックスによる年齢経過予想図の作成
全国ネットのテレビ特集番組での情報提供呼びかけ

福井のおでん屋から採取された決定的証拠

福田和子の共犯者

最後の逃亡先となった福井市で、福田は致命的な過ちを犯します。「中村麗子」を名乗り、市内のおでん屋「園」に頻繁に通うようになったのです。

店での福田の様子について、女将は後にこう証言しています。

とても人なつっこい女性で、カラオケが上手くて店を盛り上げてくれました。まさかあの方が福田和子さんだとは…

危機が訪れたのは、ある日のテレビ放送でした。

常連客が特別番組で福田の声を聞く
「園」の常連客「麗子」の声質と酷似していることに気付く
女将と相談の上、警察に通報を決意
警察と協力して証拠採取を計画

皮肉なことに、福田自身が自らの正体についての話題を持ち出しています。

私、テレビに出てる福田和子に似てるって思ってるでしょう?でも私は整形なんかしてないわよ。ほら、触ってみて

…と、自ら鼻に触らせるなど、過剰な自信を見せていました。

指紋採取の経緯は以下の通りです。

ビール瓶、グラスを特別に洗浄
カラオケの際に使用したマラカスも確保
すべての証拠品を丁寧に保管
警察の鑑識課で指紋を採取

時効成立11時間前の起訴までの攻防

1997年7月29日午後6時35分、福田和子は時効成立まで残り21日という時点で逮捕されました。しかし、これはまだ戦いの始まりに過ぎませんでした。

逮捕から起訴までの時間との戦いは、以下のように進んでいきます。

7月29日:福井から松山への移送開始
7月30日:松山東署で取り調べ開始
8月1日:共犯者の存在を主張
8月10日:アリバイ捜査の本格化

特に緊迫したのは、時効成立直前の48時間でした。捜査本部では、検察との綿密な打ち合わせが続きました。

このままでは起訴は難しい。共犯者とされた男性のアリバイが崩せない限り、起訴はできない

検察官のこの言葉に、捜査陣は焦りを感じながらも、最後の証拠固めに奔走します。そして、ついに男性の完璧なアリバイが証明され、8月18日午後、時効成立わずか11時間前に起訴が行われたのです。

共犯者説が崩れた真相と判決

福田和子の裁判は、1997年10月から松山地裁で始まりました。15年に及ぶ逃亡の末に明らかになった事件の真相と、被害者家族の苦悩、そして社会に与えた影響について詳しく見ていきましょう。

共犯者説が否定された理由

裁判では、検察側が福田の「共犯者説」を完全に否定する証拠を次々と提示していきました。

決定的な証拠となった日記には、以下のような具体的な記述が残されていました。

8月19日 朝8時の新幹線で東京へ。○○商事との商談は上手くいった。夜は得意先の接待で銀座の料亭へ。明日も東京泊まり

さらに、以下の証拠が補強材料となりました。

新幹線の切符購入記録
商談相手だった企業の議事録
接待した料亭の予約台帳
宿泊したホテルの記録

これらの証拠について、弁護側は「記録の改ざんの可能性」を主張しましたが、複数の独立した記録が一致していることから、その主張は退けられました。

強盗殺人罪での起訴と裁判での争点

共犯者説が崩れた後も、福田は最後まで強盗目的での殺人を否認し続けました。

公判での福田の主な主張は

殺意はなく、口論の末のだった
金品を奪ったのは後からの思いつき
家具を運び出したのは、パニックになっていたため
逃亡したのは、刑務所での過去のトラウマが原因

しかし検察は、以下の点から犯行の計画性を立証していきました。

– 犯行当日、手土産を持参して被害者宅を訪問
– 殺害後、すぐに夫を呼び出せる態勢
– 親戚に事前に引っ越しの話をしていた
– 逃亡資金の準備が計画的

無期懲役判決に至るまでの経緯

1999年5月31日、松山地裁は福田和子に無期懲役の判決を言い渡しました。山本慎太郎裁判長は判決理由で、以下の点を厳しく指摘しています。

被告人は、自己の欲望を満たすためだけに、被害者の尊い命を奪った。その後の逃亡生活においても、複数の男性と関係を持ち、享楽的な生活を送り続けた。被害者や遺族への真摯な謝罪の言葉もなく、反省の態度は全く見られない

被害者・安岡厚子さんの人となりについても、以下のように言及されました。

31歳という春秋に富む若さで、故郷で実弟と喫茶店を開くことを夢見て懸命に働いていた被害者の人生を、被告人は理不尽にも奪い去った。その無念は察するに余りある。

判決後、福田は控訴しますが、2000年12月の高松高裁でも棄却。2003年11月には最高裁でも上告が棄却され、刑が確定しました。

その後の服役生活は長くは続きませんでした。2005年2月、和歌山刑務所での作業中にくも膜下出血で倒れ、3月10日に病院で死去。享年57歳でした。

福田和子事件の真相と末路【総括】

福田和子の共犯者

金の無心を装いながら、実は計画的に被害者の家財を狙った可能性が高い犯行
共犯者説は時効を逃れるための虚偽の供述だった
7つの顔を持つ女と呼ばれたが、実際の整形は1回のみ
和菓子店での生活が最も安定していたが、正体を隠し続けることの限界があった
逃亡資金は被害者の預金と家財の換金で約150万円を確保
整形で顔は変えられても、声と指紋が決め手となって逮捕
15年に及ぶ逃亡の末、時効成立21日前の逮捕、11時間前の起訴という劇的な結末
無期懲役の判決を受けるも、服役から1年4ヶ月後に病死

福田和子の事件は、計画的な殺人であり、共犯者はいなかったことが明らかになりました。その一方で、彼女の逃亡生活からは、人を欺く能力と、人に愛される不思議な魅力の両面が浮かび上がります。

この事件を通じて、警察は懸賞金制度や音声公開など、新たな捜査手法を導入することとなりました。さきほど大島てるを見に行ったら、やはり事件現場に炎アイコンがついています。今なお語り継がれるこの事件は、人間の光と影の両面を私たちに示しています。

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